公文の国語は意味がないって言う人がいる6つの理由

公文 国語

 公文は知名度の高い教材ですが、効果が見られないという意見も一定数存在します。そして公文の国語を知っていくうちに、意味がないと感じられる場合もたしかにあると感じました。

 今回は公文の国語に意味がないと感じる時、その背景にあるいくつかの理由を説明していこうと思います。

応用力や思考力はあまり身に付かない

 公文では各学年での基礎的な内容を、反復によって完璧に理解する事を目指しています。言い換えれば応用的な思考力の習得を主とした教材ではありません。

 算数であれば、基礎的な計算が速く正確である事は目を引きます。学習を進めていけば思考力や応用力が求められる場面は来ますが、それはあくまで基礎を前提にした難問においての話である事が多いです。掛け算や割り算がまだ不安定な段階で、応用力を求められる事はまずありません。

 しかし国語においては違います。

 小学校1年生に高校生向けの文章を読めという人はいません。読む文章は「おおきなかぶ」のように学年相応のものでいいと思う人が大半でしょう。しかし国語においては「おおきなかぶ」を読んでいる段階でも、内容を元に感想や考えた事を言える事が求められます。内容を正しく理解するという基礎をベースに、考えをまとめるという応用的な思考力が、小学校1年生でも求められるのです。

 基礎が曖昧な段階で応用を求める事の是非はともかく、実態として国語には早い段階での応用が求められます。しかし公文はあくまで基礎に重点を置きます。ですから公文を学ばせたのに、応用力や思考力が身に付かなかった。やらせた意味がなかったという感想で終わる場合があるでしょう。

学年が上がると知識系の学習は不十分

 公文の国語では教材を通して読解力の向上がテーマになっています。漢字や文法に関する学習はありますが、読解がメインで、知識はサブというニュアンスはあります。

 このニュアンスが最も濃く出るのがJ教材からL教材の古文・漢文です。教材においては古文・漢文が出題されますが、現代語訳や解説文が付随しています。すると古文・漢文の単語や文法を暗記しなくても、読解自体はできます。それを反映してか、古文・漢文の教材の中に単語や文法に関するパートは登場しないのです。

 それでも学年が低いうちは十分な知識量を獲得できます。例えば小学校レベルの漢字が分からない状態では、少し難しい文章が出てくれば読解に支障をきたすからです。

 しかし学年が上がる程に、多少分からない漢字があっても読解自体はできるという事が増えてきます。小学校で習う漢字より、高校で習う漢字の方が登場頻度は明らかに少ないからです。また学年が上がる程に習う漢字の数は増えますが、一学年あたりのプリントの枚数は変わりません。必然的に一つ一つの漢字に対する学習は手薄になっていきます。

 多くの文章を読んでいく事で、細かな単語や文法を暗記していなくても、文全体のニュアンスは把握できるようになってきます。あえて暗記しなくても単語や文法の大まかな意味が理解できるようにもなります。それでも単語や文法をピンポイントで聞いてくるような知識問題に答えるためには、プラスαでの学習が必要になるでしょう。

 ですから勉強と言えば知識の暗記だという考え方がある人にとって、公文は学習量と暗記量が見合いません。あれだけ勉強させたのに、暗記量がこれだけなら意味がなかったという考え方もありえます。

受験に特化していない

 公文は受験塾ではありません。学習塾です。受験に向けたテクニックを学べる所ではありません。

 ですから特定の受験に向けたテクニックを身に付けられるわけではないですし、受験関連の情報が手に入るわけではありません。公文で基礎力を身に付けたとしても、その基礎力を受験において点を取る力にするためには別の手を打つ必要があります。

 世の中には「結果が出なければ意味がない」とする考え方があります。過程と結果のどちらを重視すべきかというのは諸説ある部分ですが、直接的に受験の結果へ結びつけるという点においては公文だけでは足りません。すると「公文だけでは合格できないから意味がない」という考え方は成り立ちうるものだと思います。

本好きな子に読書量で敵わない時期がある

 ここまでで公文の本旨は読解力の向上だと述べました。しかしこの読解力に関しても、ずば抜けた成果が見られない場合があります。なぜならいくら公文を学習していても、本好きの人の読書量には敵わない事があるからです。

 公文の国語の学習ペースは人によりますが、概ね日に10ページ程度のプリントをこなす事になるでしょう。しかし本が好きであれば、読書量は十倍、二十倍に及ぶ事もあります。何百ページもの本を一日で読み切ってしまう人もしばしばいます。

 特に多いのは小学校高学年あたりで、小説にハマっている子供でしょう。小学校低学年まではやや教育的なニュアンスを持った作品が多いですが、このあたりから教育性よりエンタメ性を重視した作品が多く出てきます。どっぷり物語の世界にハマってしまえば、好きという感情よりも強い感情はありません。公文でやっているよりも何倍もの文章量を、寝食も忘れて読み続ける事になります。

 読書が好きだという気持ちがずっと続くとは限りません。また公文に出てくる教材は名作揃いで、着実に実力を伸ばすように構成されていますから、相手がただ読書好きというだけであれば、中長期的に見れば読解力は逆転していきます。しかし圧倒的な読書量の差を埋めるのに時間がかかる事も事実です。

 結果として、お金を払って嫌々公文をやらせても意味がなく、子供を読書好きにした方がいいという考え方が生まれるでしょう。

先取り学習で学んだ事はいずれ学校でも習う

 公文国語の特徴として読解力の向上を挙げましたが、公文全体の特徴としては先取り学習が挙げられます。公文では実際の学年とは関係なく、理解度に応じて教材を進めていくので、場合によっては実際の学年よりはるかに先へ学習を進める事ができるのです。この先取り学習に期待して公文を始める方も多いのではないでしょうか。

 しかしこの先取り学習は、中途半端に終わらせてしまうとあまり意味がありません。

 先取り学習はあくまで、いずれ学ぶ内容を先に学んでいるというだけの話です。それぞれの単元で学ぶ内容は基礎的な内容です。基礎の徹底という意味では公文にメリットがありますが、内容そのものに特別さがあるわけではありません。

 ですから先取り学習のメリットとしては、先取り学習によって生まれた余力を他の学習に使えるという点が挙げられます。大学受験の対策が本格的に始まる前に国語の基礎を固める事で、数学や英語の対策のためにより多くの時間を使えると言った具合にです。小1でD教材(小4相当)が終わっても、そのまま公文を辞めて、小4になればアドバンテージはなくなります。

 先取り学習によって得たアドバンテージを別の何かに活かせなければ、先取り学習の意味はなくなると言えるでしょう。

読解力の成長は目に見えにくい

 ここまでは期待と実際の差異について話しましたが、それ以前の話もあります。読解力の向上というのはそもそも目に見えにくいのです。

 文章の読解力は、理解力そのものと密接に関係しています。特別な訓練をしなかったとしても、情緒や脳の発達に伴い物事を理解する力は向上していきます。文章の読解に役立つ様々な知識もどんどん付いてきますし、語彙も増えてくるでしょう。国語の勉強をしなくても、成長に伴ってある程度読解力は伸びるのです。

 そして読解力というのは測定するのが難しいものです。国語のテストによって点数は出せますが、文章や問題の難易度は簡単に数値化できるものではありません。また同じ難易度の文章であっても、お子さんの詳しい分野とよく知らない分野では全く点数が変わってくるでしょう。

 公文国語を始めてから読解力が成長していても、それが公文国語の効果なのか、それ以外の部分の成長なのか。そして本当に読解力は成長しているのかという所を考え出すと、公文国語の効果を周りから判別するのは非常に難しい話になります。本当に公文国語をやらせた意味があったのかという点で疑問を持つのはある意味当然な部分があります。

公文国語を意味があるものにするのは意外と難しい

 今回は公文国語の意味を感じられなくなるパターンを解説しました。

 私自身は公文の国語を学んでおり、大きな意味があったと感じています。一方で周りの人へ客観的にそれを示せと言われても、非常に難しいだろうなと思います。また公文のメリットを正しく理解し、受験戦略へ活かすのも難易度の高い話だと思いました。

 教室数の多さや開始のハードルの低さから、とりあえず公文を始めてみるという家庭は多いと思います。しかしどうして公文をやらせているのか分からなくなってしまう家庭も同じように多いのではないかと思います。

 やらせていても意味がないなと感じる場面があったら、今回挙げたポイントを参照しながら、自分とお子さんがどんな状態にあるのか確認してみて下さい。

▼公文国語についてもっと理解したい方はこちら▼

QooQ